誰「推し」とか
今さらの話しだけど、誰「推し」という言葉におかしみを感じつつも
全く馴染めない。僕は別に好きなメンバーのことを推薦している訳で
は無くて、ただ好きなだけで。
彼らは彼らで現場に行く度に自分の行動や思考から「推し」という
言葉をイメージし、かたちづくって行ったのだろうが、僕は何度現場
に行ってもそれに馴染めることはなかった(ヲタ芸やら推しジャンプ
やら後ろ向いて仲間にも推しジャンプやら然り)。
「推し」と言う言葉からは、果たしてその人がどのように対象を愛し
ているのかが良く分からない。野球選手を応援する感覚なのか、恋愛
感情を抱いているのか、歌手として好きなのか、アイドルグループと
して好きなのか。そんなことをいちいち聞くのは野暮だと思うから、
会話の端々からその人の気持ちを推理していくしかない。……いや、
そういうのって楽しかったりもするんだけど。
しかし、どんな感情を抱いているにせよ、明確な勝敗が存在しない
この世界において「応援」という言葉はほんとに似つかわしくない
なぁ、と思う。だって、てめえが好きでコンサートに行ったりしてる
だけじゃねえかっての。…何言ってんだ、好きだから応援するんじゃ
ねーか、と言われそうだけど、と、すると、その人達にとっては例え
ば「野球選手を応援する感覚」が一番強いんだろうか。
そういう問いかけ自体が野暮なのも分かってはいるけれど、僕は、
どうしてもそこに恋愛感情を感じずにはいられない。そして、それを
否定したり、気づかない振りをしたりすることには何か意味があるの
だろうかと思う。
照れ隠し的にそれを使うのはかえって好感が持てる。
そういう人は、その言葉を使わずとも表情や行動、文章にそれが滲み
出るものだから。しかし、僕はある種の人々の行動と「推し」やら
なんやらの言葉のつながりを見る度に、なんだか色々なことが分から
なくなる。彼らなりの世界があることは想像できる。そして、時には
彼らの即物的な行動を理解したりもする。僕自身、自虐的にそういう
言葉を使ったりもする(そして誤解されたりもする)。しかし、どうに
も、自分がキッズに感じている感情と、彼らの発する言葉の中に共通
のものを見出すことができない。かつて存在した古き佳き時代のよう
に、奥の、底の底で共有すべき感情を見つけることができない。
しかし、もう僕はそのことを前より悲しいとは思わなくなった。
僕が最も影響を受けた時代の空気を彼らは知らない。あるいは、同じ
空気を吸っていても彼らは気づかなかったのかも知れない。それは
どうしようもないことだ。
僕がキッズを好きな気持ちは、最終的に僕のものでしかない。
それは、最初から決まり切っていたことだ。Berryzが誕生し、℃-ute
が誕生し、そしてキッズは静かに忘れ去られていく。グループ以前の
キッズとしての歴史を共有できる人はほとんどいない。そして僕は、
偏屈じじいとしてこのような日記を夜な夜な綴るようになる。
けっ、
あの頃のしみハムを、あの頃のオカールを、あの頃のまいまいを、
あの頃の茉麻を、あの頃の友理ちゃんを、あの頃のみんなのことを、
何も知らないくせして何偉そうなこと言ってやがる。
ハロキ30000回見て出直して来いよ。
…などと。
僕はこれからますます嫌われるだろうけど、でもここにいるよ。