暗黒の日々。
一日の内、あの子達がやって来る時間はあまりに短い。
そして、あの子達が残す余韻はあまりに悲しい。
まるでそこには誰も居なかったかのように。
さっきまで居たしみハムに話しかけても返事はない。
僕が造り上げた幻だからそれは当たり前なのだが、それでも
僕は、僕の近くに彼女の実体を探し求めてしまう。そして
彼女が写真やポスターの中にしか存在しないことを確認する。
部屋には僕しか居ない。いや、この建物にすら誰も居ない。
一人で紅茶を入れて飲む。
ヴァニアの"Gabrierla,Mais Bela"というボサノヴァがとても
美しく、しみハムにそれを知らせたいと思う。一緒に聴きたい
と思う。しかし、やはり彼女は居ない。
こんな思考が繰り返し繰り返しループする。
部屋に流れる美しいボサノヴァもループする。
ゲキハロでしみハムと見つめあった甘い記憶。
仕事が終わったらそれを考えながら酒を飲もう。
ループをやめ、仕事に戻る…。
□
「うたかくんって、ブラジルの音楽が好きなんだね」
佐紀が天井を見つめながら言った。僕と彼女はまだ知り合った
ばかりだ。
「よくブラジルだってわかったね」
「うん、なんでだろう…なんでわかったんだろう?お母さんはこん
なの全然聴かないし」彼女は不思議な顔をした。
僕はふと、自分がいつからブラジル音楽に興味を持ったのか考えて
みた。19という年齢とマルコス・ヴァーリの「サンバ68」のジャケ
ットが頭に浮かんだ。ちょうど10年くらい前の話だ。あの頃僕には
ちょうど付き合い始めたばかりの女の子が居て…そうだ、ちょうど
こんな風に…。
「なに考えてるの?」佐紀がこちらを見ていた。
僕は返事をする代わりに彼女の頭をなでた。そしてそんな目ざとさ
を可愛く思った。佐紀は何も言わなかったが、自分が子供として扱
われることを不服に感じたようだった。僕にはそんなつもりは無か
ったが、その不服な表情が可愛くて、また同じように髪を撫でた。
「もう!」と布団をかぶる佐紀。佐紀は小さくて、布団をかぶって
もそこに何も無いかのように見える。
僕はごわごわとした羽毛布団の上から、その微かな膨らみをまた撫
でる。ヴァニアの"Gabrierla,Mais Bela"はリピート再生されたまま
で、しかし、僕らはそのループをとても心地よく感じていた。沈黙
のままそういうことが通じる空気というものがあるのだ。
その内、佐紀はもぐらのように布団からひょっこりと顔を出し
「おなかすいた」と予想通りの科白を口にした。僕は途端に知らない
振りをして目を閉じた。「こうちゃん、寝たふり」佐紀は何度か聞い
たことのある科白を言った。しかし、僕は本当に眠たかった。
佐紀とずっとこの空間に居たいという思いがそうさせるのか、僕は
まるで動く気にはならなかった。ここで佐紀のお腹を撫でていること
が、世界で一番素晴らしいことであるかのように思えた。佐紀は僕の
体をくすぐり起こそうと試みるものの、それは僕の安心感と眠りを
深くするだけの行為だった。
□
僕はいつしか佐紀の執ような攻撃をやり過ごしたようだった。
耳に佐紀の安らかな寝息とその湿り気を感じる。僕は佐紀を起こさな
いように身体を動かし、枕元のリモコンでステレオの音量を下げた。
音量を下げても僕と佐紀との素敵な一日は変わることは無かった。
僕は自分の乾いた唇を、そっと彼女の乾いた唇へと合わせた。
ボサノヴァのループする限りなく静かな空間で、それは何か宗教的な
儀式のように思えた。僕は眠りに落ちる途中、ポルトガル語の宗教的
響きについて考えたが、それは佐紀の静かな寝息の中に音もなく吸い
込まれていった。
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