28度に設定したちょい暑めの部屋で、冷えたホッピーとジャズ・サンバ。
最高だZ……。ああ……あとは隣にキッズ達さえいてくれたら……。
何事にも本気の舞美さんは、このミルトン・バナナのリズムを習得しよう
と真剣な表情で耳を澄ませたりするのではないだろうか…(横でオカールが
クイーカ)。
しかしこのテノーリオ・ジュニオルのピアノとミルトン・バナナのドラムにはキッズ
も絶対に痺れるに違いない。友理ちゃんはどうだろう……友理ちゃん…あああ友理ちゃん……。
□
先日、とある漫画の主人公とヒロインを僕と友理ちゃんに置き換えて読んでいてまた
泣きそうになってしまった。飲酒時以外はつらくなるから、あまりキッズと恋人妄想
をするのは避けるようにしているんだけど、最近なんだか急に………不意にそういう
妄想が……。そして、俺なんかこのまま一人で……と絶望が……。狂おしい渇望が…。
そういう時にはなぜか想像力と皮膚感覚がやたらと鋭敏になり、僕の言葉に彼女がど
ういう声で、どういう風に答えるのかをとてもリアルに想像できたれするんだけど、
でも彼女が居るはずのその空間に手を伸ばしても誰もいない。部屋には音楽が流れて
いて、もうすぐその曲の中で一番好きなフレーズに差し掛かる。その瞬間だけでも
いいから、友理ちゃんに会えないかな、と思う。でも会えない。
□
でもこんなことを書いていながら着々と僕は線引き作業を進めていて、だからこそ
色々なことに絶望していて、そして、その場所に新しい何かを見出そうとしているの
かも知れない。新しいものを見出すということは自分を掘り返す作業と同じで、そこ
から結局、大切なものは身近にあるというありきたりな結論へと行き着いてしまうの
だけど、そんな当たり前のことになんだか泣きそうになってしまう。
ぐるっと一回りしてその場所へたどり着いた時、僕は彼女達と違う世界に住んでいる
ことを改めて認識する。そして、世界をつなぐものについて想像する。
□
例えば自覚的なしみハムなら。彼女なら、「パッション」を歌う時に、歌詞の向こうに
あるものを想像するはずだ。そして、歌詞の向こうにはたぶん、必ず僕らも存在してい
るはずだ。彼女達は空席に向かって歌っているはずは無いのだから。
その、彼女達が歌いかけてくる何かに感動する時、泣きそうになる時、それは決して一
方通行の関係ではない。あの太陽のように輝くちなこの表情を見るだけでそれは分かる
はずだ。
感覚の話というものはこうして書いてみると本当に難しくて、でも、名古屋で会って話
した人達や、東京の後で話した人達には同じようなものが共通感覚として流れているよ
うな気がする。それはとても心地よく、自然に流れている。
Berryzよ。